三浦氏と居神神社

おだわら散策
09 /04 2015
新井城(まだ行ってないけど)繋がりで小田原市内の居神神社のことを。

居神神社は小田原市板橋、かつては大窪村、板橋村と呼ばれた地区の氏神さま。
小田原城外郭南西の出入り口である板橋見附、総構の土塁の一角を成していた場所にあります。

居神はいがみと読み、神社が建つ以前は井神の森と呼ばれていた一帯で
井神は水神の意味もあるので元々神聖な場所だったようです。


なぜ新井城繋がりで居神神社なのか?
 
北条早雲により追い詰められた三浦氏は新井城に3年間籠城し壮絶な戦いの末に滅亡します。
最後の当主は三浦荒次郎義意。身の丈7尺5寸(227cm)の巨漢にして怪力の大将でした。
父三浦道寸の自害を見届けた後、敵に突っ込み北条勢を500人以上も倒し、自らの首を切り落として自害。享年21歳。
その時落ちた首が小田原城まで飛んできて井神の森の松の木に引っかかった!というのです。

義意の首は腐ることなく開眼したままぶら下がり続け、通行人を睨み驚かせ、中にはショック死する人も出たとか。
首を下ろそうとした家臣はことごとく事故死、どんな僧がお経をあげても成仏しない、呪いのせいかとうとう早雲も韮山城で亡くなってしまいました。
そんな状態が3年も続き、曹洞宗小田原三山の一つである久野総世寺の四世忠室存孝和尚が噂を聞いてやって来て

「うつつとも ゆめとも知らぬ ひと眠り うきよのひまをあけぼのの空」

と供養して詠むとたちまちに白骨化して地に落ち、空から「われ今より当所の守り神にならん」との声が。
その後、井神の森に社を建て居神神社として祀った、というのが神社の由緒です。


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 居神神社の石段と手水舎。三浦氏の家紋である「三つ引両紋」「中白」が見られます。


もちろん首が空を飛ぶなんてあり得ませんし、3年も腐らないはずはないし、早雲が死んだのは老衰でしょうし、
小田原城からほど近い総世寺の和尚がこの怪奇現象を3年もほったらかしにしてたなんて頷けません(^^ゞ

「小田原北条記」によると、義意の首はそのまま新井城の地にあって腐らずに開眼したまま3年間近隣の者を震え上がらせ、
久野総世寺の和尚がやって来て上の句を詠んで供養したとあります。
こちらの方が合点がいきますね。


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 神社拝殿。祭神は三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命。


新井城では義意の遺体があった四方百間(およそ180㎡)はなぜか常に青草が茂り、牛馬がその草を食べると即死する、そのため人は田畑も作らず決して立ち入らない。
夜になると叫び声や食べ物を求める声が聞こえ、
特に落城した7月11日は毎年稲妻が走り強風が吹き荒れ空中から戦う武者の声がする、と小田原北条記は続けています。

後世の創作にしてもこれだけの話が出るほどですから、三浦一族の怨霊を北条氏が非常に恐れていたことが窺えます。
首が飛んできたのかどうかはさておき、若き当主三浦荒次郎義意を神として祀ることで怨霊を鎮めたかったのでしょう。


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 神社裏手の古碑群。梵字のある背の高い2基は鎌倉時代後期のもので市の重要文化財に指定されています。


なお、義意の父三浦道寸の母は大森氏頼の娘、早雲に小田原城を奪取されたあの大森氏です。
久野総世寺は大森氏頼による開基、道寸が出家したのもこの総世寺でした。

祖父が建て父が出家した寺の和尚の供養だからこそ義意は成仏できたのかもしれませんね。

また、三浦道寸と義意が自害したのは永正13年(1516年)7月11日
北条氏政、氏照が切腹したのは天正18年(1590年)の同じく7月11日。

偶然と言ってしまえばそれまでですが、やはりちょっと怖いです・・・


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  可愛いお稲荷さん。かなり古そうです。


小学生の頃、子供会のイベントで居神神社で肝試しをしたことがあります。
それほど広くない境内ですし、普段から馴染みの深い場所なので全然怖くなくて(笑)
夜に友達と神社で遊べたことが楽しくて楽しくて。

あまりに子供たちが怖がらなかったせいか、大人の準備が大変だったのか、危険だとクレームでも来たのか、
居神神社での肝試しはその夏限りで終わってしまったと記憶しています。


毎年5月に催される北条五代祭りでは居神神社からも神輿が出ます。
居神流という荒っぽい担ぎ方が有名なのですが、これは祭神が荒ぶる神なので荒々しいのが神意に適うとされているためです。

死しても生き、北条氏を呪った三浦荒次郎義意はやがて荒ぶる神となってかつての敵地を見守り続けています。
なんと荒々しく、そして心の広い偉大な神なのでしょうか。


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