塚原の大森彦七

大森氏をたずねて
08 /07 2017
またまた長泉院来由記の話題で恐縮です。

来由記では板矢長者の悪犬退治の80余年後、1342年頃の大森彦七による大龍退治の話が出てきます。
大森頼明の西相入りから30年前のことです。


大森彦七 といえば太平記の登場人物。
湊川の戦いで楠木正成を滅ぼし、その呪いで次々と妖怪に襲われるんだけどことごとくやっつけちゃったという猛将です。

最初は え!その大森彦七がここで大龍退治したの? と思ったんですが、太平記の大森彦七は伊予の人。
同じ大森でも駿河大森とは居住地がかけ離れているし出自も異なります。
湊川の戦いが1336年ですから、そんな忙しい時期にわざわざ四国から足柄にやってきて大龍退治するはずないですよね。

伊予の彦七は歌舞伎で演じられるほど有名ですが、塚原の彦七は大森一族というだけでそれ以上は全く不明なんです。


hikosi11.jpg
月岡芳年「新形三十六怪撰」より 大森彦七道に怪異に逢ふ図


「大森」「退治」と聞けば彦七以外浮かばないとか、
よくわかんないけどとりあえず彦七にしておこうとか、
もしかしたら塚原にも同名の彦七さんがいたとか、
もしかしたら本物が伊予から不思議な力で瞬間移動してきたとか、
そもそも玉峯山の悪犬や大龍の話は大森彦七をモチーフとして作られたとか・・・

化物退治自体がファンタジーですので、多少腑に落ちないことは大目に見て楽しく想像するのがよろしいかと。

それにしても、なぜ彦七は板矢姓ではないのでしょう?


hikosi2.jpg
長泉院 龍門橋


足利将軍尊氏公の御代、大森彦七という侍がいて、玉峯山に猟に来たところ、
山中振動し黒雲山を覆い大雨になり、大龍が現れ、火焔を吹きかけ彦七を一口にと襲いかかってきた。

彦七は太刀を抜いて何度も切りはらい、太刀がゆがんでしまったので「この太刀は鈍い」と沢に捨て、脇差で戦った。
大龍はその勇気に打たれ、やがて山奥へと去って行った。

この大龍の現れた場所が龍門橋、太刀を捨てた沢が頓平沢と今に伝わっている。

彦七は捨てた太刀を拾い麓に下りて、川で洗い清め石に突き刺すと簡単に貫いてしまうので驚いた。
「これは鈍いどころか名刀ではないか」
さては山の守護神が龍をもって自分の殺生を制したのだと、彦七は恐れ謹んだ。

太刀を洗った川を大刀洗川、太刀を突き刺した場所を太刀塚といい長円寺のそばにある。
ゆえにここを塚原村という。
彦七の太刀は今も長円寺の重宝である。



退治というよりは大龍に諭されたようなお話ですね。
現在長泉院にある龍門橋はこの話が伝わる場所に近年に造られたものです。

hikosi5.jpg
龍門橋の上の龍

hikosi6.jpg
太刀を捨てた頓平沢

頓平沢は龍門橋の下で、大刀洗川の上流になります。
参道脇に続く大刀洗川はとても清々しく神秘的。寺にいることを忘れてしまいそう。

でも私、水が流れてるのは見たことないんですが。


hikosi7.jpg
長円寺

長泉院の末寺。長泉院から大刀洗川を2キロほど下ったところにあります。
無住の小さなお寺で周辺の道も狭いので、ナビには出てくるもののわかりづらかったです。

大森彦七はここまで帰って太刀を洗ってるので、住まいはこのあたりではなかったのか?
と保田宗良氏は書かれています。


hikosi8.jpg

彦七が太刀を刺したと伝わる石

hikosi9.jpg

どうです?刀を刺したように見えますか?


彦七の太刀は今も寺に大切に保管されていて、私は見たことはないのですが
稲葉博氏が「大森彦七の大蛇退治」で詳しく書かれています。
氏は私の母校の歴史の先生だったんです。残念ながら私は受け持たれたことはなかったのですけど。

太刀はなぜか三つに折れていて、大龍と戦った時に折れてしまったのだとか。
稲葉先生の見立てによると反りのない直刀であり彦七の時代とは合わず、おそらく古墳時代のものではないかと。
また、一本の刀が三つに折れたのではなく二本の刀を三つにしたのではのないかと。
三にこだわる理由として、古代イングランドのケルト民族神話との繋がりを考察されています。

子供の頃、お皿が真っ二つに綺麗に割れちゃうと不吉だとかで、
さらに割って細かくしてから捨てろと言われてましたが・・・ それとはちょっと違うかな?(笑)


にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村