玉峯山の板矢長者

大森氏をたずねて
07 /23 2017
大森氏八代目の頼明が小田原進出をにらみ内山に城を築いたのが1372年ごろ。
足利尊氏が死去してまだ10数年の南北朝時代のことでした。

それ以前の大森氏を駿河大森、西相入りを果たした頼明からを小田原大森、と呼ぶように
この1372年は大森氏の一つのターニングポイントになってます。

utiyama1.jpg
(保田宗良「岩原古城と住民」 に加筆)

裾野から(御殿場線沿いに)順調(?)に北上してきた大森氏も足柄峠から東は「ちょっとヤバいかも・・・」と思ったはずです。
それまでは北駿の純朴な土豪さん達を「名門のわたしたちと親戚になりましょ~」って感じで支配してきたけど、
ここから先は血気盛んな河村氏とかプライド高い松田氏とかいて(私のイメージです) ・・・なんか怖いっ 今まで通りにいかない気配っ

私も内山城のことを書いた時、あのヤバい河村氏の目と鼻の先に城を築くなんてよくできたなぁと感心したのですよ。
誰かが上手いこと現地調査や有力者に根回ししないと無理っぽいですもの。


でもでも
いたんですよ。頼明を手助けしてくれた勢力が。

岩原城のところで大森氏所縁の長泉院に少し触れ、貴重な史料を蔵していると紹介しました。
有難いことに史料の数々は足柄史談会の保田宗良氏や大森同族会の大森頼忠氏らの尽力で「長泉院史料集」として纏められています。


その中の「玉峯山長泉院来由記」に1262年の大森氏一族による悪犬退治の話が書かれています。

sasago14.jpg
(長泉院史料集 玉峯山長泉院来由記 上)

玉峯山というのは長泉院のある山の名で寺の山号にもなってます。岩原城の西2キロほど、河村城からは南へ7キロほどのところ。
来由記には大森始祖親家の妾腹出生だった大森某が祖父に逆らいこの地に蟄居し山林に隠住していたとあり、
某さんが玉峯山に来たのは親家存命の頃なので1190年あたりということになります。
親家が裾野で大森姓を名乗り始めた頃に某さんは家を飛び出して南足柄に移住していたんです。

蟄居とはいえ相当な財産と人を従えてやって来たようで、土地の人からは長者と崇められる身分に。
ある時難病を患った長者さんは信仰していた八幡宮に平癒を願ったところ、自宅の板葺き屋根に白羽の矢が飛んできて病気はまもなく全快。
喜んだ長者さんは大森から板矢に改姓!
その後は板矢長者、屋敷のあった地は板矢ノ窪と呼ばれました。

現在は板屋窪と字は変わりましたが地名はしっかりと伝えられています。




頼明が内山城を築く100年以上も前に南足柄には大森氏の一族が移り住んでいて
子孫達が本家大森氏の進出を手助けしたと考えられるわけです。
そのあたりは保田氏が詳しく書かれていて、「未知の西相にあったテトラポット」だと仰ってます。
早川の海岸沿いをドライブしててそう感じたそうですよ。

無事西相入りを果たし、岩原に陣取りした頼明や、玉峯山に長泉院を建立した氏頼らは
遠い昔から先祖が暮らしていた土地をどれだけ感慨深く思ったことでしょう。


にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村