お盆と夫のルーツと宮本城 (に行けなかった)

千葉県
08 /17 2017
お盆休み、皆様はどのように過ごされたでしょうか。
関東地方では悪天候が続き、海水浴など計画していた方々は残念だったでしょうが、
暑さが苦手な私にとっては今年は過ごしやすく快適なお盆となりました。

いつもは真夏の城めぐりは避けているのですが、こんなに涼しいので千葉の城めぐり&墓参りしようか~と。
夫の家系は安房、南房総市出身で、時々夫婦で墓参りに行ってるんです。


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南房総へはもちろんフェリーです。
フェリー大好きです。
フェリーに乗るために千葉に行ってるようなものかも。


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美しい浦賀水道。
かつて里見の水軍もこの景色を眺めながら相模に攻めてきたのでしょう。

この2枚は天気の良い別の日に撮ったもので・・・


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今年のお盆はこんなでした。時折雨がパラついてどんより・・・

生憎の天気でもさすがはお盆。フェリーは座る場所に困るほどの混雑でした。
あんなに混んでたのは初めてかも。



夫のルーツは南房総市富浦町大津。


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おおつの里 花倶楽部 という道の駅以外何もない静かなところです。
(写真撮ってなかったのでこちらからお借りしました)

初めての時は自動販売機さえなくて焦ったのですが今回行ったらいくつかあって (´▽`) ホッ


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花倶楽部の前にこんな案内板が新設されてて感動。
夫の先祖は里見氏の家臣でここ一帯に住んでたそうです。屋敷跡なんかもあるので姓バレバレですな。

地図にある城山、宮本城は里見2代成義が稲村城の支城として築いたとか。
詳細はわかりませんが、宮本城ができた頃から、あるいはそれ以前から夫の一族は大津に住み里見氏に仕えていたと思われます。
今回は墓参りの後に寄ろうと考えてたのですが小雨が降ったり止んだりで・・・
往復2時間の山城は無理そうなので諦めました。
前は時間がなくて断念したんですよね。いつになったら行けることやら。


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宮本城イメージ
(行ってないのでこちらからお借りしてきました)

なお、寺は屋敷跡の北にある妙蓮寺です。
この寺は道路脇の高台にあって、墓地までは切通しのような堀のような坂道を登るんです。
まるで曲輪に見える一画もあり、屋敷の一部か詰城だったんじゃないかと想像してます。


それにしても
自分のルーツの地なのに夫は非常に無関心です。
墓参りには熱心なんだけど宮本城のことはどうでもいいみたいであまり行きたがりません。
近隣を散策するのも面倒くさがります。(何もないので)

これだけ私と一緒に城めぐりして、城の構造なんかに関しては私より鋭敏に正確に把握できて私より時間をかけて歩くのに、
自分の先祖がいた土地、城には興味がないなんて。
私なんかは父方の祖母のルーツがほんのちょっとわかる程度なので、昔から「里見の家臣」とハッキリ言われてきた夫の家系が羨ましいんですけど。
もっと知りたい、調べようとか思わないの?と聞くといつも
「うーん、、別に」 

だったら私が調べればいいんだけど、実際少し調べたんですけど、夫はこんな調子だし、何かわかって教えてあげても「へ~」だけだし、
私は普段北条と大森のことで頭がいっぱいで里見のことまでやってられないのでもうやめちゃいました。

世の中には自分のルーツを一生懸命探索する人もいれば夫のように無関心な人もいるわけです。


ということで
墓参りを終え、宮本城登城を諦めた私たちは大津を後にして館山に向かったのであります。

館山城なら雨でも大丈夫そうだったので。


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塚原の大森彦七

大森氏をたずねて
08 /07 2017
またまた長泉院来由記の話題で恐縮です。

来由記では板矢長者の悪犬退治の80余年後、1342年頃の大森彦七による大龍退治の話が出てきます。
大森頼明の西相入りから30年前のことです。


大森彦七 といえば太平記の登場人物。
湊川の戦いで楠木正成を滅ぼし、その呪いで次々と妖怪に襲われるんだけどことごとくやっつけちゃったという猛将です。

最初は え!その大森彦七がここで大龍退治したの? と思ったんですが、太平記の大森彦七は伊予の人。
同じ大森でも駿河大森とは居住地がかけ離れているし出自も異なります。
湊川の戦いが1336年ですから、そんな忙しい時期にわざわざ四国から足柄にやってきて大龍退治するはずないですよね。

伊予の彦七は歌舞伎で演じられるほど有名ですが、塚原の彦七は大森一族というだけでそれ以上は全く不明なんです。


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月岡芳年「新形三十六怪撰」より 大森彦七道に怪異に逢ふ図


「大森」「退治」と聞けば彦七以外浮かばないとか、
よくわかんないけどとりあえず彦七にしておこうとか、
もしかしたら塚原にも同名の彦七さんがいたとか、
もしかしたら本物が伊予から不思議な力で瞬間移動してきたとか、
そもそも玉峯山の悪犬や大龍の話は大森彦七をモチーフとして作られたとか・・・

化物退治自体がファンタジーですので、多少腑に落ちないことは大目に見て楽しく想像するのがよろしいかと。

それにしても、なぜ彦七は板矢姓ではないのでしょう?


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長泉院 龍門橋


足利将軍尊氏公の御代、大森彦七という侍がいて、玉峯山に猟に来たところ、
山中振動し黒雲山を覆い大雨になり、大龍が現れ、火焔を吹きかけ彦七を一口にと襲いかかってきた。

彦七は太刀を抜いて何度も切りはらい、太刀がゆがんでしまったので「この太刀は鈍い」と沢に捨て、脇差で戦った。
大龍はその勇気に打たれ、やがて山奥へと去って行った。

この大龍の現れた場所が龍門橋、太刀を捨てた沢が頓平沢と今に伝わっている。

彦七は捨てた太刀を拾い麓に下りて、川で洗い清め石に突き刺すと簡単に貫いてしまうので驚いた。
「これは鈍いどころか名刀ではないか」
さては山の守護神が龍をもって自分の殺生を制したのだと、彦七は恐れ謹んだ。

太刀を洗った川を大刀洗川、太刀を突き刺した場所を太刀塚といい長円寺のそばにある。
ゆえにここを塚原村という。
彦七の太刀は今も長円寺の重宝である。



退治というよりは大龍に諭されたようなお話ですね。
現在長泉院にある龍門橋はこの話が伝わる場所に近年に造られたものです。

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龍門橋の上の龍

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太刀を捨てた頓平沢

頓平沢は龍門橋の下で、大刀洗川の上流になります。
参道脇に続く大刀洗川はとても清々しく神秘的。寺にいることを忘れてしまいそう。

でも私、水が流れてるのは見たことないんですが。


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長円寺

長泉院の末寺。長泉院から大刀洗川を2キロほど下ったところにあります。
無住の小さなお寺で周辺の道も狭いので、ナビには出てくるもののわかりづらかったです。

大森彦七はここまで帰って太刀を洗ってるので、住まいはこのあたりではなかったのか?
と保田宗良氏は書かれています。


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彦七が太刀を刺したと伝わる石

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どうです?刀を刺したように見えますか?


彦七の太刀は今も寺に大切に保管されていて、私は見たことはないのですが
稲葉博氏が「大森彦七の大蛇退治」で詳しく書かれています。
氏は私の母校の歴史の先生だったんです。残念ながら私は受け持たれたことはなかったのですけど。

太刀はなぜか三つに折れていて、大龍と戦った時に折れてしまったのだとか。
稲葉先生の見立てによると反りのない直刀であり彦七の時代とは合わず、おそらく古墳時代のものではないかと。
また、一本の刀が三つに折れたのではなく二本の刀を三つにしたのではのないかと。
三にこだわる理由として、古代イングランドのケルト民族神話との繋がりを考察されています。

子供の頃、お皿が真っ二つに綺麗に割れちゃうと不吉だとかで、
さらに割って細かくしてから捨てろと言われてましたが・・・ それとはちょっと違うかな?(笑)


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悪犬退治と笹子地蔵

大森氏をたずねて
07 /29 2017
板矢長者の続きになります。

大森頼明が内山城を築く100年以上前に塚原に移住していた大森某がいて、その子孫が頼明の西相模進出を手助けしていた。
「玉峯山長泉院来由記」などの資料からそう考えることができる、という保田宗良氏の見解により
私の「河村氏や松田氏ヤバくなかったの?」というモヤモヤは少しスッキリしたのですが、
それにしてもどう手助けしたらあんなところ(内山)に陣取れたんでしょうね。
玉峯山の大森一族ってそんなに強力だったんでしょうか。

さて、「玉峯山長泉院来由記」では最初に大森某、つまり板矢長者による悪犬退治の話が出てきます。
この悪犬、山犬は長泉院と大森氏と切っても切れない関係で、
この犬がいなかったら話は進まない、玉峯山=犬! くらい重要な存在のワンコなんです。

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板屋窪 玉峯山長泉院参道入り口

弘長2年(1262)の頃、玉峯山に恐ろしい山犬がいて人々を悩ませていた。
狩ろうとしても不思議な力で目をくらませ猟師をかみ殺し、ついには里に下りて人を襲うようになった。
人々はすっかり怯え野良仕事もままならない状態だった。

ある時、板矢長者の夢に黄色の衣を着て玉の鉾を持ち、高鼻、両眼光り輝く老人が出て、
「我は当山の守護神である。この難を救ってあげよう。恐れるる事なかれ。」などと言うので
長者は感激して人々にこの話を聞かせた。
人々も喜び、勇気を出して退治しようと、長者を先頭に山に入った。
ところが山犬がいつにも増して猛々しく襲いかかってきたので、なんと長者一人を残して全員逃げてしまった。

山犬は長者に飛びかかり、もはやこれまでか 
のところで空中より金色の光が放たれ、犬は身動きできなくなってしまった。
そして夢に見たあの黄色の衣の老人が忽然と現れ、何やら呪文を唱えると犬は気絶してしまった。

老人は犬を笹子山まで引きずっていき、大天狗のようなその正体を現し、しばらく石の上で休んでいたかと思うと金色に光りながら飛び去ってしまった。
その際、光が犬を照らすと犬は石に変わってしまった。
長者はこの山の守護神に深く感謝し祠を建て、黄色大権現宮と崇敬した。



黄色大権現というのは金毘羅大権現の分身で、板屋長者がこの地に来るよりずっと昔、6世紀ごろから玉峯山に祀られていたそうです。
長泉院が建立されるのは1470年ですが黄色大権現=金毘羅大権現のお堂は以前からあって、
板屋長者の頃と位置は変わってないと思われます。

それで、来由記によると
山犬を呪詛して捕らえた場所を犬縊、その付近を犬峠、犬を引きずって止まったところを地蔵石
山犬が石になったものを鑵主石、黄色権現が休んだ石を天狗石・・・・・

と、ここに書ききれないほど犬と黄色権現に関する旧跡が紹介されてます。
もう多過ぎて混乱してしまうほど。



山犬が引きずられていった笹子山は玉峯山の南。
昭和50年代だったか、笹子山全体がグリーンヒルという分譲地になって深い山だった当時の面影はなくなってしまいました。
ですが黄色大権現が山犬を石に変えた場所は笹子地蔵として今も残されています。


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笹子地蔵入り口。
看板が小さいので気をつけてないと見落としてしまいます。

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笹子地蔵は湧水が有名らしくて(でも地元の人もあまり知らない)
大森氏や山犬伝説のことは99%知られていません。


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道路から入って数メートルでこんな素敵な場所に。

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山の斜面にたくさんの石碑が散らばってます。

地域の方が手入れされてるのでしょうか。紫陽花が綺麗です。


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湧水はこんな感じ。
狭いのでちょっと汲みにくそう。


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上の方には石を切った跡が見られます。
矢佐芝の石丁場が近くにあるので、この辺からも石を切り出してたんでしょうね。
南足柄も石丁場が多いところです。


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矢穴のある石


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笹子地蔵のお堂


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鑵主石や天狗石はここにあるというのですが・・・ 全然わかりませんでしたっ
石ばっかなのでどれがどれやら。。
なんとなく犬っぽい石もあったんだけど小さ過ぎるかな~ とか。犬と言うよりアザラシかな(笑) とか。

南足柄市でこの先整備する予定があるのでしたら是非!石の説明書いてほしいです。
特に地蔵石というのは大変霊験あらたかだそうですので、わからないなんてもったいない。
あ、それより笹子地蔵の説明板欲しいなぁ。湧水だけの地蔵じゃないんですから~


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笹子地蔵からほんの少し上にこんな石垣がありました。
元はこちらにお堂があったのでしょうか。


なお、犬縊や犬峠という地名も私が調べた限りでは場所はわかりませんでした。
今も名前が残ってるかどうかも不明。
来由記におおよその距離や方角が書いてあるので、今度自分で地図を描いて(できるのか?)考えてみようと思ってます。


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玉峯山の板矢長者

大森氏をたずねて
07 /23 2017
大森氏八代目の頼明が小田原進出をにらみ内山に城を築いたのが1372年ごろ。
足利尊氏が死去してまだ10数年の南北朝時代のことでした。

それ以前の大森氏を駿河大森、西相入りを果たした頼明からを小田原大森、と呼ぶように
この1372年は大森氏の一つのターニングポイントになってます。

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(保田宗良「岩原古城と住民」 に加筆)

裾野から(御殿場線沿いに)順調(?)に北上してきた大森氏も足柄峠から東は「ちょっとヤバいかも・・・」と思ったはずです。
それまでは北駿の純朴な土豪さん達を「名門のわたしたちと親戚になりましょ~」って感じで支配してきたけど、
ここから先は血気盛んな河村氏とかプライド高い松田氏とかいて(私のイメージです) ・・・なんか怖いっ 今まで通りにいかない気配っ

私も内山城のことを書いた時、あのヤバい河村氏の目と鼻の先に城を築くなんてよくできたなぁと感心したのですよ。
誰かが上手いこと現地調査や有力者に根回ししないと無理っぽいですもの。


でもでも
いたんですよ。頼明を手助けしてくれた勢力が。

岩原城のところで大森氏所縁の長泉院に少し触れ、貴重な史料を蔵していると紹介しました。
有難いことに史料の数々は足柄史談会の保田宗良氏や大森同族会の大森頼忠氏らの尽力で「長泉院史料集」として纏められています。


その中の「玉峯山長泉院来由記」に1262年の大森氏一族による悪犬退治の話が書かれています。

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(長泉院史料集 玉峯山長泉院来由記 上)

玉峯山というのは長泉院のある山の名で寺の山号にもなってます。岩原城の西2キロほど、河村城からは南へ7キロほどのところ。
来由記には大森始祖親家の妾腹出生だった大森某が祖父に逆らいこの地に蟄居し山林に隠住していたとあり、
某さんが玉峯山に来たのは親家存命の頃なので1190年あたりということになります。
親家が裾野で大森姓を名乗り始めた頃に某さんは家を飛び出して南足柄に移住していたんです。

蟄居とはいえ相当な財産と人を従えてやって来たようで、土地の人からは長者と崇められる身分に。
ある時難病を患った長者さんは信仰していた八幡宮に平癒を願ったところ、自宅の板葺き屋根に白羽の矢が飛んできて病気はまもなく全快。
喜んだ長者さんは大森から板矢に改姓!
その後は板矢長者、屋敷のあった地は板矢ノ窪と呼ばれました。

現在は板屋窪と字は変わりましたが地名はしっかりと伝えられています。




頼明が内山城を築く100年以上も前に南足柄には大森氏の一族が移り住んでいて
子孫達が本家大森氏の進出を手助けしたと考えられるわけです。
そのあたりは保田氏が詳しく書かれていて、「未知の西相にあったテトラポット」だと仰ってます。
早川の海岸沿いをドライブしててそう感じたそうですよ。

無事西相入りを果たし、岩原に陣取りした頼明や、玉峯山に長泉院を建立した氏頼らは
遠い昔から先祖が暮らしていた土地をどれだけ感慨深く思ったことでしょう。


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要害山城(山梨県)

山梨県
07 /16 2017
甲府にはよく行ってるんです。
ええ、静岡ばっか行ってるわけではないんですよほんとに。駅前の信玄様には年に何回もお会いしてるんです。
私は甲府が好きなんです。(どこでもそう言う)
信玄餅も信玄ロールも大好きですし
何と言っても甲府には駐車場付きの天下一品がありますし。

ですから要害山城はとっくにUPしてる と思い込んでました。
そしたらですよ、要害山どころか躑躅ヶ崎館さえまだじゃないですかっ
なんなんでしょうね。この、おばさん特有のやってないのにやったと思ってしまう都合のよさって・・・
物忘れより質が悪いですわ。ふぅ・・・


で、気を取り直して要害山城です。

躑躅ヶ崎館跡である武田神社は甲府の一般的な観光スポットですので、城に興味がなくても行かれる方は多いと思います。
ですが神社から3キロほど奥の要害山城にはハイカーか山城好き以外はなかなか行かないんじゃないかと。
武田神社はいつも人でごった返してますが要害山は休日でも非常に静かな山城です。

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要害山登山口。

積翠寺温泉「要害」の横にこのような登山口があります。
昔はホテルの駐車場を利用するしかなかったのですが、数年前に観光客用の駐車スペースができたので安心してとめられる~

と思ってたらホテルは今年の冬に閉館してしまったようです。
一度はお風呂に入りたかったのでとても残念・・・
今後は福祉施設となるそうです。


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ハイカーさん用のアバウトな案内板。

この図を見れば一目瞭然なのですが要害山城は躑躅ヶ崎館の詰城です。
なんでそんなことわざわざ書くのよ?と申しますと
駅前の甲府城のことを武田の城だと思ってる人が意外と多いからです(笑)

なお、少し下方にある積翠寺で武田信玄は産まれたといわれ、境内には産湯の井戸が残されています。


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隣の立派な石碑「史跡 要害山」の城の想定図。
山のほぼ全体にびっちりと普請されてます。

門があって曲輪があって、また門があって曲輪があって・・・をつづら折りに延々と繰り返す
ちょっと変な、というかスゴい山城です。遺構のデパートのような。状態もきわめて良好。

甲府は市内の至近距離に2つの百名城(武田神社&甲府城)があるという珍しい、スタンプラリー的には美味しい地ですが、
要害山城もこの度めでたく続百名城に選ばれました。
(続のスタンプはどうなってるのかなぁ・・・)


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遊歩道を進み史跡内に入ると土塁やら曲輪やらがドンドン出てきます。

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武田不動尊の建つ曲輪。

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井戸と水神さま。


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門跡

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門跡

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門跡

どんだけ門あるんだよー って次から次へと門が出てきます。全部で10個くらいでしょうか。
枡形になってたり石積みがあったりでワクワク。

でもあとで写真を見るとどれがどこの門だったのかわからない。。


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主郭です。
73×22m(現地案内板より)の長方形。広いです。


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周囲にしっかり残存してる土塁の上を歩くことができます。
今まで何度も言ってますが、土塁を歩くのって楽しい♪


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信玄誕生の地の石碑。
この主郭で産まれたように見えますが、実際には麓の積翠寺のようですね。


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庭園の庭石らしい。


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主郭の搦め手側の門です。
石積みが見事に残ってます。


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搦め手側は竪堀や土橋がザクザクと。
竪堀は大手にもあるんですけどこちらの方はわかりやすいです。


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堀の内側を石積で補強してあります。
諏訪原城の井戸を思い出してしまいました。


要害山は標高770m、比高250mくらいで、初心者用のハイキングコースに設定されているほど登りやすい山です。
初めて行った時「あぁ、今日は疲れそうだな・・・」と覚悟してたら、
疲れる前にあっという間に主郭に着いてビックリしてしまいました。
片道30~40分くらいでしょうか。
遺構を見ながらの登山道はゆるゆるとしていてキツい箇所はほとんどなかったです。
大きさの割には疲れないので山城苦手な方でもここは大丈夫だと思います。

なお、搦め手道の途中から支城である熊城に行けるらしいのですが、
私は道がよくわからなくて・・・まだ未到達なんです。
熊城にも遺構がいっぱいあるらしいので、次回は是非とも道を発見したい! ものですっ


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