伊豆水軍城を眺めるクルージング

静岡県
10 /14 2017
西伊豆ドライブは景色が綺麗でとても楽しいですが、
海岸線にずらっとあった水軍基地に思いを馳せながら走るともっと楽しいです。

西伊豆海岸はリアス式に入り組んでおり、所々の入り江は古くから良港となってました。
ここに至るまでの遠州灘は砂丘が広がる難所なので、船人は伊豆半島に入るとホッとしたそうです。
(なんとなく・・・逆かと思ってた)

入り江の港にはそれぞれの領主による小規模な水軍組織があり、戦国時代になると伊豆に進出してきた北条早雲の傘下に入り、
北条家臣団の伊豆衆、伊豆水軍としてあちこちの戦場で活躍しました。

港周辺は時代による改変が激しいので伊豆のような田舎でも水軍城の遺構は少なく、
保存状態がよく見学しやすいのは
長浜城(国史跡)
丸山城
白水城
下田城(市史跡)

くらいでしょうか。

あとは藪だらけで整備されておらず遺構を探すのは大変そう。
ネットを見ると行ってる人もいるんですけど・・・私は嫌なので今のところは上以外はパスしてます。

資料にはあっても所在地不詳な城も多く、
土肥神社に伝わる足利基氏の書とされる感状(基氏伝帖)には
高谷城主富永備前守以下11人の城主の名が挙げられていますが、城址が確認されてるのはその内4つだけです。

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(土肥町教育委員会「土肥の富永一族」より)

この古文書は年代がおかしいこともあって信用度は低いのですが、西伊豆に11くらいの水軍城があったのは間違いなさそうです。


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高谷城

土肥の港から北に見える山が高谷城跡です。
発掘調査もされており、縄張図を見るとかなり広い城だったことがわかります。
手前の麓、温泉旅館が並んでるあたりに城主富永氏の屋敷がありました。

富永氏は北条五家老の一人、青備として知られ江戸城や栗橋城を任されていた重臣です。
北条五代記などにはしょっちゅう出てきますので大変お忙しく優秀な一族だったようで。
その富永氏の本拠地がここ土肥でした。


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富永氏の菩提寺 清雲寺

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富永政辰夫妻と政家の墓(中央)



高谷城から土肥金山を経て3キロほどに富永氏の支城、丸山城があります。
丸山城は一応訪問してるので別記事で。

丸山城から10キロほど南下すると熊野水軍からの助っ人、梶原氏率いる安良里城。
そして山本氏の田子小松城。
どちらも行ってません行けません遠くから眺めてるだけ。


堂ヶ島から先も城址はあるのですがやはり入る気はしないので・・・

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入れないなら海側から城を眺めてみようではないか!ということで堂ヶ島でクルージングです。
水軍気分を味わうのです。

洞くつめぐりはいくつかコースがあって、この日は雲見上の山城を見たかったので50分間の「千貫門クルーズ」


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高速クルーザーであっという間に沖に出ます。気持ちいい^^
(暑いので船内から撮ったらちょびっと窓が写りこんでしまった)


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水軍の皆様も時には洞窟に入って遊んだりしてたのでしょうか。


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左手の入り江が仁科。中央海側の山に安城山城がありました。
右の大きな建物があるところが松崎町。沢谷城がありました。
どちらも場所は未確定なので今後の調査に期待したいです。


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雲見上の山城。
基氏伝帖にも書かれている高橋氏の居城です。

海に突き出た標高160mの烏帽子山には物見台があり、連なる山上の平地に城がありましたが遺構はほとんどないようです。


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烏帽子山には雲見浅間神社が鎮座しており、山頂までの参拝コースはその険しさと絶景で人気の観光スポットとなってます。
でも近頃すっかり高所恐怖症の私は写真を見るだけでクラクラ・・・ 絶対登りたくありません。

左手回ったところが雲見海岸。水軍の船着き場でした。
西伊豆の海岸はどこも美しいですが雲見はその中でもピカイチ! 癒される美しさです。

「千貫門クルーズ」は波勝崎まで行って、最後に有名な青の洞くつに入って終了。
50分間あっという間でした。


雲見の先、村田氏の領地だった妻良。
村田氏の城は名称も場所もわからなくて

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港から少し入ったところの三島神社あたりが居館跡だといわれています。

この神社、境内は小さいけど建物や狛犬が変わってて面白いんです。
さらに水軍の痕跡を伝える重要なモノが・・・


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北条水軍妻良衆の力石!


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これがなぜ今日まで伝えられているのか不思議感でいっぱい。
でも何もないより嬉しい。

伊豆半島の最南端、石廊崎の白水城はちゃんと見学してますのでこちらも後日に。


余談ですが、、
西伊豆には 妻良(めら)、安良里(あらり)、田子(たご)、宇久須(うぐす)、三津(みと)などなど
適当に当て字しちゃったような変わった地名が多くて「アイヌ語みたいだなー」と思ってたのですが、
伊豆にアイヌ人がいた説はわりとメジャーなんだと最近知って驚いてます。
本当にアイヌ語だとしても普通はもう少し転訛しそうなものですけど。

詳しく調べたら面白そうですよね。

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下田城(静岡県) 北条伊豆水軍めぐり

静岡県
10 /04 2017
近頃は村上水軍が大人気で、つい先日も「英雄たちの選択」で村上武吉やってましたね。面白かったです。
でも私にとって水軍と聞けばパッと浮かぶのはやはり北条の三浦水軍と伊豆水軍でして。(&しつこい里見水軍)

三浦水軍はその名の通り三浦半島の新井、三崎城や浦賀城など、
早雲が三浦氏の城と水軍をほぼそのまんま手中にして里見に対抗したものです。

伊豆水軍もその名の通り伊豆半島。
三浦水軍が北条氏初期から組織されていたのに対し、伊豆半島は甲相駿三国同盟により戦乱の少ない土地だったので、
本格的に編成されたのはずっと遅く天正期になってから。
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歴史への誘い戦国ロマン漂う下田城址「下田城の保存を推進する会」より 後北条氏の支城網)

北条氏の伊豆半島の支城図。長浜城~下田城まで西伊豆にぐるっと水軍城が置かれています。
長浜城の築城あるいは改修が天正7年(1579)下田城が天正16年(1588)と、秀吉の小田原攻め(1590)の前に大慌てという感はありますが、
それぞれに強力な土豪がいたので水軍編成は「お任せあれ!」 あっという間にできたんじゃないかと。


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伊豆水軍のメイン基地だったのは下田城。
城主は伊豆衆筆頭の実力者 清水康英 クン
氏直からの絶対的な信用により城を任されていました。
多勢に無勢の秀吉軍に伊豆水軍城のほとんどが即降伏、戦わずに逃げたりしてますが、唯一下田城だけが50日に及ぶ籠城戦を戦いぬいています。

現在は下田公園となっていて一部の破壊はあるものの、曲輪や堀跡などは良好に残されています。

ただ、下田駅近くに怪しい天守閣「下田城」があるせいで本物の方の認知度が低いのが残念。
あちらのネーミングだけでも変えてもらうことはできないものでしょうか・・・

あと、いまだ発掘調査がされてないのも残念ですよね。


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城碑の建つ場所はかつての船着き場でした。今も道路を挟んでこのような気持ちのいい光景。


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下田城のいいところの一つは説明板の充実ぶり。
市史跡にしか指定されてないのに素晴らしく親切です。どこぞの城も見習ってほしい。


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こんなのもあります。わかりやすい~


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天守台前の城碑。
城のある半島が鵜島というので鵜島城と呼ばれていたこともあったそうです。


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こんな詳しい解説もあります。
なんだか説明板めぐりみたいになってますが(笑)

これだけあれば下田は開港や黒船やお吉さんだけじゃないんだっ ってわかってもらえますよね。


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「下田城の保存を推進する会」のHPで上の復元図を見れます。(このHPも素晴らしい)

中央の広い曲輪が天守台跡のある主郭。
赤根島の入り江には下田海中水族館があります。


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天守台跡。柱穴が残されています。


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素晴らしい堀の数々。。

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観光地の公園なのによくこれだけの堀が残ったものだと不思議です。


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もちろん堀の説明もバッチリ。

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公園化されてるとはいえ敷地は広く高低差もあるので(比高60mくらい)決して楽ではありません。
全部じっくり見ると2時間はかかるかも。


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志太ヶ浦展望台からの絶景。
こちらの海岸線はほとんど改変がないので昔と同じ景色が見られます。

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これぞ伊豆。
城址に関係なくおすすめのスポットです。


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菊地氏の宝篋印塔復活!

大森氏をたずねて
09 /26 2017
「大森氏の子孫 菊地氏」
生往寺の宝篋印塔がバラバラになっててショックを受けた件。

無事に修復が完了したとメールを頂いたので見に行ってきました。
メール頂いたのは7月だったんです。夏の間はあまり動けなくて遅くなっちゃいましたm(__)m

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3ヶ月ぶりの生往寺です。
良い季節になりましたね。


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ドドーンッ
これが修復されたお姿。
新しい外柵がつけられ玉砂利が敷き詰めてあります。眩しい!気持ちいい!

考えてみればお墓のリフォームは割とポピュラーなことでした。(うちもやりたいかも)
バラバラだっ と大騒ぎしてた自分が恥ずかしい(笑)


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左から菊地泰次、
泰次の妻(泰定の継母)、
佐久間頼照の母

↑ご指摘いただき訂正いたしました。


菊地泰次が亡くなったのは慶長15年(1610) 江戸時代の黎明期ですね。
ご存知の方も多いでしょうが、宝篋印塔は時代と共に形が変化します。
この頃になると細身になって隅飾(真ん中の花びらみたいなとこ)が開くんです。
古いものほどどっしりとしてて隅飾は真っすぐ。乗光寺の大森六代の墓はちょっとだけ開いてます。
戦国時代に開き始めて江戸時代になると一気に花開いちゃう感じ。

菊地氏の宝篋印塔は時代がよく反映されている美しい形だと思います。


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(別本乗光寺本大森系図 『大森氏と足柄』足柄史談会 に加筆)

佐久間頼照というのは泰次の孫で、外戚佐久間氏に養われて佐久間を称し、
その子、頼直が大森姓に戻すことを許され、離散していた先祖の墓を乗光寺にまとめ、大森系図の整備もしました。


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「北条氏と両上杉氏の抗争」

イベント、博物館など
09 /20 2017

三連休の最終日18日は市内で催された小和田哲男先生の公開講座「北条氏と両上杉氏の抗争」へ。

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関東管領両(山内、扇谷)上杉氏~上杉謙信に至るまでの北条氏との抗争がテーマ。
時代考証を担当されてる大河「直虎」のこともちょこっと。
いつもテレビで拝聴する通り、穏やかで優しい語り口でとてもわかりやすいお話でした。


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私にとってはなかなかタイムリーな内容でして。
当日頂いたレジュメのこの上杉氏系図、ここまで詳しくまとまってるのは有難い。
帰宅して何枚も拡大コピーして色々書きこんで遊んで勉強してます。

てか、先生のこの本買えばいいんじゃん~ と気づいてポチしましたけど。

もう・・・
尊氏の母が上杉じゃなかったら、
高一族がもう少し頑張ってくれてたら、
関東はこんな複雑にならずに上杉謙信という毎年の災害も現れなかったのにっ


北条の歴史とは上杉との戦いの歴史だったということで。


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魅惑の竹之下 その2「竹之下合戦」

静岡県
09 /16 2017
竹之下その2は建武2年(1335)の竹之下合戦についてです。

鎌倉幕府滅亡→建武の新政→室町幕府 あたりは日本史上で最も複雑難解、異常ともいえる時代で
ここさえなかったら日本史って楽しいのにっ 私が日本史につまづいたのは後醍醐天皇のせいだっ
と思ってる皆様も多いかと。

私も大森氏がいなかったらあまり考えたくない時代でしたが、まぁ、いろいろおさらいしてみると意外と面白かったり・・・
するので・・・す (なぜ口ごもるのか) 


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小山町役場足柄支所入り口の竹之下古戦場の碑

「箱根竹之下の戦い」として知られてるせいか箱根に竹之下がある、箱根の竹之下、と思われがちですが、

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小山町観光協会四季の旅人の資料に加筆)

箱根峠と竹之下はこれだけ離れています。竹之下は足柄峠の麓であって箱根ではありません。

1335年11月 新田義貞率いる官軍が京を出発。
12月 三河駿河で足利直義(尊氏弟)の軍を破りながら三島国府に至る。
 朝敵となるのを畏れ出家していた足利尊氏が出陣を決意。鎌倉を出発。
 直義軍は箱根峠で新田義貞軍と戦う。新田優勢。

12月12日 尊氏軍は足柄峠に陣を構え、竹之下の脇屋義助(義貞弟)軍を奇襲。尊氏大勝利。
12月13日 竹之下の敗戦を受け箱根の新田軍も総崩れ。味方の寝返り相次ぎ、三島に後退。
(日付は太平記より)
  
つまり「箱根竹之下の戦い」とは
 箱根 新田義貞VS足利直義
 竹之下 足利尊氏VS脇屋義助
この2ヶ所を中心とする合戦の総称です。

足利尊氏が官軍(新田義貞)と初めて戦い、後醍醐天皇への謀反を明らかにした戦いであり、
後の室町幕府成立、南北朝時代の幕開けとなった重要な意味を持つ戦いでした。

南無八幡大菩薩 我らにご加護を! (真田尊氏ラヴ)

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同上資料の戦跡略図(クリックで拡大)

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興雲寺の竹之下合戦供養塔

脇屋軍が詰めていた興雲寺は足利軍が放った火矢により焼失してしまいました。
なお、この時の竹之下氏(大森氏)の動向は不明です。
屋敷を官軍に差し出してるということは官軍派だったのか。
すんなりと室町幕府に仕えてるから尊氏派だったのか。
いずれにしても自分の領地が戦場になってしまったのは大変迷惑な話ですよね。

太平記に大森氏の名が出るのは(大森彦七ではない)1352年の武蔵野合戦が最初で(違ってたらすみません)
その時は関東の多くの武将と共に南朝についてます。
でも1416年上杉禅秀の乱あたりではどっぷりと鎌倉公方派。
日和見主義で乗り切ってきたのでしょうか。外様なんてみんなそうだし。


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興雲寺の東、鮎沢川とあしがらふれあい公園

公園の後方の山に尊氏軍が矢を放った「矢台」が地名として残されています。
この川越えて興雲寺まで飛んでくるって・・・矢って怖い。

あしがらふれあい公園には無料駐車場があって便利です。


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合士ヶ窪

官軍の公家、二条為冬が錦の旗を立てて残兵を集めた所。
なぜか現在は「合土ヶ久保」という地名に。士が土になってるんです。この文字も土っぽい。
士と土は間違えやすいから、間違え続けているうちにいつの間にか土で定着したのでしょうか。


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渡り上り

二条為冬がこのあたりで川を渡り所領地区へ退却しました。
鮎沢川を渡る御殿場線の鉄橋が見えます。


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白籏神社

二条為冬を祀る神社です。
渡り上りから149号線を所領地区に向かい365号線に入り東名高速をくぐったところにあるのですが・・・非常にわかりづらい。
足柄城から365号線を下って来るとすぐわかるんですけど。


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参道は東名高速にかかる橋。この神社のためだけの橋!
高速が通る前は長い階段があったのかもしれません。


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二条為冬の悲しい最期を伝えています。
現在竹之下で唯一まともに立ってる説明板(笑)


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為冬の墓


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遠見

為冬が無事に落ちのびる尊良親王を確認した所。白籏神社から斜面を200mほど登ったあたりです。
今は木々で見えませんが当時は御殿場方面まで見渡せたのでしょうね。
なお、下に転がってるのは朽ちて泥にまみれた説明板の残骸です。

尊良親王は後醍醐天皇の子、新田軍に奉じられて下向。
竹之下では無事でしたが2年後の金ケ崎の戦いで籠城の末自害しました。
後醍醐天皇の皇子は気の毒な方ばかりです。


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千束橋

官軍が退却の際に橋を落としてしまったので、尊氏軍は薪を千束入れて橋の代わりにしたそうです。
壊れた説明板を見かけたことがあるのですが今はその姿さえなくなってます。
危ないから捨てちゃったのでしょう。けっこう車通るし。

橋のたもとに古い竹之下合戦の石碑があります。


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有闘坂(有斗坂)

激戦地有闘坂の入り口。
他の戦跡とは統一感のない標示。説明板は元からなかったような。
付近にあった道祖神や常夜燈など石造物が集められてます。竹之下は古くから栄えた宿場でもありました。

写真でもわかる通り、この先はかなり急な坂道。住宅地を抜けると細い山道になります。
多くの兵を失い疲労し切っていた官軍はこの道で味方の寝返りに遭い大打撃を被りました。


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陣場

有闘坂を上りあしがら温泉を過ぎると官軍が布陣していた陣場に出ます。
説明板真っ黒で読めません。まったくもって読めません。

そうそう、ずっと行きたいと思ってたあしがら温泉に先日入ってまいりました。
富士山眺めながらの温泉は想像以上に極楽でした。絵じゃないんだもん本物だもん。
露天風呂は日差しが強くて~
常連と思われるご婦人方が「これじゃあ日焼け止めが必要よね」と笑ってました。


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五輪の塔

ここ一番わからなかったです。上の戦跡略図には載ってないんですけどね、他で見まして探したんですよ。
でも全然わからないの。何度も行ったり来たりしてようやく発見したのが足柄神社跡のでっかい石碑の向かいの
「五輪の塔 入り口」ってちっちゃい案内。
民家があって私有地っぽいので入っていいのかどうかドキドキしてしまいました。


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お約束通り説明板倒れてました。でも読めるだけで良しとしましょう。


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ずらりと並ぶ23基の五輪塔や宝篋印塔。
銘がなく様式が様々なので竹之下合戦の供養塔とは考えにくい、とありますが私には十分同じ様式に見えます。
大きさも似通ってますし。


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同じだよねぇ。。
合戦の供養塔かどうかはわからないけど、同時期に造られたんじゃないの?って思うのですけど。


以上、全部は回れていませんが竹之下合戦、魅惑の戦跡めぐりでした。

やはり説明板がない、あっても壊れていて読めないのが残念です。
長いことほったらかしの様子は見ていて寂しい限り。
竹之下の魅力を多くの人に知っていただくためにも早急なる整備&新設を願っております。


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