大平新城(静岡県)

静岡県
05 /26 2017
笠原新六郎の裏切りによって戸倉城を武田に奪われてしまった北条は、
戸倉城より狩野川沿い3キロほどの大平の地に後退、大平新城と出城山を築き武田勢に備えます。

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(静岡古城研究会「静岡の城跡 中世城郭縄張図集成」より 城館分布図に加工加筆)

戸倉城と大平新城の位置関係をわかりやすく示したくて、静岡古城研究会の城館分布図を重ねて加筆。
私にしては上手くできたと思ってます。ポイントは狩野川を青く塗ったところです(^^;
この本には大変お世話になっておりまして、方向音痴な私はもうこの本ナシでは駿河を歩けないほど。
静岡古城研究会の皆様、本当に本当にありがとうございます。



上の図でおわかりのように尾根道沿いに新城と古城があるのですが、古城が発見されたのは平成10年とのこと。
昭和がつい最近だった私にとっては平成10年なんてほんの昨日です昨日。

永禄12年(1569)武田に追われた今川氏真が掛川開城後に流転して所縁の深い大平に辿り着き、
その時籠ったのが古城の方ではないかと言われています。
今川が新城方面を使っていたかどうかは不明。

天正9年(1581)に北条が新城を築いた際に古城も一緒に整備されて使用していたようですが、
時代が流れるにつれ古城の方は土地の人達からも忘れ去られてしまったのでしょうか。


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大平新城は円教寺の裏山にあります。


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本堂右手、城址入口にある説明板。


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入ってすぐの墓地の高台はもう城域です。

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縄張図はこんな感じ。またまた静岡古城研究会さんよりです。
上の高台は(3)の曲輪。

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(3)の曲輪南側の堀道跡。

降りた先は蔵があった場所で今でも南蔵と呼ばれています。


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南蔵の道祖神。
大平地区の道祖神は丸々とした単体の像が多くてかわいい。


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山の神とお稲荷さん。
穴みたいな不思議な場所にいらっしゃいます。もしかしたら蔵の跡なのかも。


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(1)本曲輪。
城址碑のあたりが虎口。なんとなく屈折した土塁跡が見えます。

右手に浅間神社があって、そちらからも城址に入ってこれます。


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この説明の丁寧さ複雑さ(笑) というよりなんかおかしい・・・

ところで私が一番気になったのは新城新三郎です。


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(5)へ入る道。


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(5)の曲輪。
徳川家康の側室、お万の方が祈ったと伝わる七面堂があります。

お万の方の祖父は大平新城の城主も務めた北条氏尭で、まぁいろいろあって・・・中略、、
一時期この地で暮らしていたんですね。

なお、円教寺にはお万の方が使ったお椀が残されてるそうです。


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七面堂の横にこんな岩盤の土塁?が。
狼煙台ではとの見方もあるらしいです。


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こういった七不思議は実は一つしかない

と最近学習しましたわたくし


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七面堂から戻り、Yの字の尾根を南に進んですぐの平場。
韮山城へ狼煙をあげた場所だと説明があります。


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さらに進むと堀


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さらにもう一つ堀。
こちらは畝もあって大きな堀です。


この先にある大平古城のことは後ほど。

いやなかなか大変でしたわ大平古城・・・


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下古城(静岡県)

静岡県
05 /17 2017
御殿場から小山町へ抜ける時にずっと気になっていたのが
上古城下古城という地名。

かみふるしろ、しもふるしろ。古城の上と下。なんと心惹かれる名でございましょう。




上古城と下古城があるのは静岡県小山町。
御殿場市との町境のすぐ北側になります。

城があったとされてるのはこの下古城地区。
(なぜか下古城という地名は飛び飛びに存在してる)
東名高速の脇、馬伏川と立沢川に挟まれた舌状台地が城址で、わずかに土塁が残されています。

この西に上古城地区があるのですが、上古城は地名が残るだけで城館の存在はわかっていません。


東名高速を越えて東は御殿場線足柄駅周辺の竹之下地区。
大森氏一族の竹之下氏が支配し、南北朝時代には有名な竹之下合戦が繰り広げられた場所です。
そして下古城から南西1.5kmほどに北条と武田が奪い合った深沢城があります。


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下古城縄張図(「静岡の城跡 中世城郭縄張図集成」静岡古城研究会 より)

現在は縄張全体がのどかな田園地帯。
その中に鍛治屋敷、古屋敷、城山、古城下などなんとも魅力的な字名が並んでいます。
Googleマップでも拡大すると確認できるので是非見てください。


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県道150線沿い、下古城地区の供養塔をまとめた供養塚。良い雰囲気です。


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供養塚から東、こんもりした台地が城山、永塚と呼ばれる場所。


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永塚の子之神社入り口。
見落としやすいのでご注意を。


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子之神社。
細い道路に黄色い鳥居が出っ張ってるので撮影が大変。

鳥居を過ぎた左手に駐車スペースあり。


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社殿を囲む土塁が下古城の名残だといわれています。

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かわいい社殿。

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土塁が突起してる箇所。

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西側の畑から神社のある永塚を見たところ。
確認はしていませんが社務所右の城山にある住宅にも枡形のような土塁が残ってるそうです。

この永塚、城山が一番高い場所で、なんらかの曲輪があったであろうと。それ以外はわかっていません。
築城年代も不明です。

伝承では北条氏家臣の黒石玄蕃頭が居城しており、秀吉の小田原攻めにより退去したとありますが、
裏付ける資料は全くなく黒石という名も北条の家臣団には見当たりません。

おそらく黒石さんというのは北条以外の人か、もっとずっと古い時代の人か。
城を追われた戦は小田原攻めではなかったのかも。
古城という地名からしてもかなり古いことは容易に想像できます。
戦国の頃にはすでに古城址で、古城の上、下となんとなく地名ができて。
とすると大森氏、竹之下氏との関連は?
むしろ竹之下氏一族の城館だったと考えるのが自然のような。周り竹之下屋敷だらけですものねぇ。


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古屋敷。東端に墓地があります。
この墓地の奥にも土塁が少しあるらしいのですが、地元の方の墓地ですし・・・畑を横切るのは申し訳ないので諦めました。


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古屋敷から永塚を振り返ったところ。
掘削はされてますが段々と低くなってるのがわかります。

向こうに馬場があり鍛治屋敷があり。
ここまで建物がないとイメージが広がります。気持ちいい眺め~


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古屋敷から城址最北端に向かう道。
沼館愛三氏は「駿東地方に於ける城郭研究」で深沢城に似ていると。
この雰囲気ほんとに似てます。深沢が真似したんじゃないかしら。


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途中にある祠たち。


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城の最北端。
一段下がったこの場所には「城」という字が。ここまで来て城ですか、うーん。。

「城」の向こうで馬伏川と立沢川が合流していて、その先は「古城下」になります。ややこしい・・・


伝承にしか現れない謎の城主黒石玄蕃頭ですが、城を追われ一色という集落まで逃れてそこで自刃。
それを知った夫人の椿御前も一色で自害したそうです。悲しい話ですね。

一色は上古城の隣の集落なので近いです。下古城から車で5分くらい。走って逃げても20分くらいで着きそう。
この一色には一色の堀之内、つまり一色城があって、字「堀切」「島土」付近に城館があったそうです。


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一色城の西端とされる用沢橋。
ここから先の細長い地が島土と呼ばれています。

一色城のことは下古城以上にわからなくて、主は今川家臣の土豪とも武田氏二十四将の一人とも。
わずかな土塁の残欠と字名だけが城館の名残を伝えてるだけのようです。


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下古城の玄蕃頭と椿御前が一色のどこかで亡くなり、二人の霊を祀る社、それぞれ八幡社と椿明神が建てられ、
特に椿明神はお椿さんと慕われ現在も祠が残ってると。
小山町観光協会のHPにも名称だけ載ってるんですが場所はわかりませんでした。
近くで農作業してる方に尋ねても「聞いたことない」そうで。

椿明神の場所をご存知の方がいらしたら教えてくださいませ。


今回はほぼ伝承だけの城跡めぐりで下調べも大変でしたが、田園風景に心癒される楽しい散策となりました。
御殿場大好き!と前に書きましたけど、大森氏に関わる内に小山町も大好き!になっちゃってます。

ですからね、梅雨前に竹之下を歩いて帰りにあしがら温泉に入ろうと計画中 ウフフ


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小田原用水 その3

おだわら散策
05 /10 2017
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図3のあたりで二手に分かれた南側の用水路はほぼ暗渠で面白くもなんともありません。
いつ頃暗渠化されたのかよく憶えてないのですが、昭和55年の堀浄化事業で用水路底の改修も行われたようなので、
その時ついでに一気に暗渠が進んだのかもしれません。


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図の7、旧道と国道を結ぶ道と交差するところ、牛頭天王がある道です。
ここで開渠が少し見られます。


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左は40年くらい前までお米屋さんだったお宅。
古い建物がまだ残されています。当時使用されてたリヤカーもそのまま。
このお米屋さんと石橋(と言うのかな?)は私が子供の頃と全く変わっていなくて嬉しいです。


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旧お米屋さんの横を流れる用水。
ここでさらに分水されて3本になります。


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3本の真ん中の用水はパチンコ店の脇で開渠が見られます。
昔よりだいぶ細くなっちゃいましたけど。


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3本の一番北側、旧東海道から一つ南の小道です。
暗渠でも古い石塀や石橋の名残があって懐かしい雰囲気を感じられます。


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図8、上の小道から小田原百貨店裏手への道。
道路の下からいつも水音が激しく聞こえる場所です。
用水脇のお宅には祠が多いですがここは赤色が鮮やかで目を惹きます。


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こちらの用水は板橋見附より少し箱根寄りで国道1号線を通ります。
(奥の信号が板橋見附)
早川取水口から板橋に入った用水は分水したり合流したりしながら4ヶ所(5ヶ所かな?)に渡って再び1号線を横切るわけです。


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図の9、国道1号線を過ぎたところの開渠。
ちょうど新幹線の高架の下。坂なので流れが速いです。
ここには蓮船寺があったのですが昭和35年に新幹線開通のため城山に移転しています。
小峰御鐘ノ台大堀切の横なのでご存知の方も多いかも。

蓮船寺の開創は北条家臣の井出氏で、井出氏は治水工事を任されていた家柄です。
屋敷が板橋にあったようで、この付近に住んで仕事をしていたのでしょうか。


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蓮船寺があった一帯は東海道から3~4mほどの段差の下にあり、小田原城外郭はこの地形を利用していたといわれています。
今でもこの石垣など見ると段差がよくわかります。


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図10、小田原藩主大久保氏の菩提寺、大久寺の山門。
門前の石橋の下を用水が流れています。


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大久寺の脇、JRの高架に沿って流れる用水。
でもここあんまり綺麗じゃないんですよね・・・(苦笑) お寺は綺麗なんですけど。


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陸橋をくぐって早川口方向へ。
向こうに見えるのが早川口遺構の入り口です。


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早川口遺構の外周を流れて顔を出したところ。
ここは綺麗です~


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早川口遺構を過ぎるとこんな素敵な小道が。
外郭に沿って流れてるのでこの辺はずっと土塁だったんだな・・・と実感。


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古い石橋もあります。


この後用水は南町へ、海側総構に沿いやがて相模湾へと入ります。
南町にもところどころ開渠があって面白いのですが長くなってしまうのでこの辺で。


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小田原用水 その2

おだわら散策
04 /29 2017

小田原用水 その1 では図の3のところまで来ました。

かつて板の橋が架かっていた旧東海道を横切り、香林寺の昔の参道沿いに水は流れ、

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直角に東に曲がります。



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ここから先、板橋見附までの道はほとんど開渠。
小田原用水のウォーキングコーズでは主にこの道が紹介されています。


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上の写真を拡大。川に降りる石段が残されています。
ここで野菜を洗ったりしてたわけですね。


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要塞みたいな内野醤油屋さんの裏手。
板橋の案内図があります。


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取水口から古い用水路1本しか書かれてませんが、よほどの用水好きでなければこの図だけ回れば十分です(笑)
用水に沿ってお寺がいっぱいあるのがおわかりいただけると思います。


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この位置の北側小道からは松永記念館、香林寺を通った荻窪用水が流れてきてここで合流しています。
(荻窪用水はこれまた大変なので別の機会に)

奥に見える山は小田原城外郭の御鐘ノ台。


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もうこの道でしか見られなくなった板橋の原風景。


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三井物産設立者、益田鈍翁の広大な別荘、掃雲台の入り口を横切ります。(図の5)
鈍翁さんは用水でとれるシジミが好物でよく客人に振る舞っていたそうです。
シジミがとれたなんて今では信じられないんですけど。

ここには小田原用水と掃雲台の説明板があります。


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掃雲台の見取図。
なかなか目にすることがないと思うのでこれだけ拡大しておきます。
このように山全体が掃雲台で、ミカン畑や缶詰工場などもあり別荘というよりは一つの村、自治体。
小田原には明治の偉人の別荘が多いですが板橋には特に集中してて、中でも掃雲台は別格でした。


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上の説明板から掃雲台の坂道を見上げたところ。
大木があるあたりに藁葺門があって、左には毛織物工場、坂道の先の右には豚、牛、うさぎ、鶏の飼育所がありました。

現在は分譲地となっていて、地形と道路にわずかな面影が残るだけです。


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掃雲台入り口のレトロなポンプ。同じようなのが小田原文学館にもあります。

そういえば私の家にもお隣さんにも昔はポンプ式の井戸がありました。
どこの家にも井戸って普通にあったんですよね。


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掃雲台から板橋見附までは静かな空気に包まれています。

10年ほど前、突如この場所に蛍が現れたんです。
用水の上流で育てようとしたのが失敗して、なぜかここまで流されてから定着したようで。自然って不思議~
こちらの方が薄暗くて雑草も多いから蛍には良かったんでしょうか。

目の前で蛍を見るなんて初体験でしたからとっても嬉しくて。多い時は数十匹飛び交う姿が見られました。
でも段々と少なくなって・・・数年後には全くいなくなってしまい(泣)

また戻ってきてくれないかなぁ。


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ブラタモリで紹介された北条時代から続く石工、青木家の裏手です。
タモリさんがここでお社に葵の御紋を見つけてました。

北条早雲が小田原城に入ったといわれる明応4年(1495)以降、
早雲は京などから様々な商人、職人を城下に呼び寄せており、有名なのはういろうの外郎家(宇野家)ですよね。
寺社や城郭建設のために呼ばれた石切善左衛門がこの青木家の先祖。
現在も(株)青木石濱として営業しています。


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旧東海道沿いの青木石濱さん表口。

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(小田原地方商工業史 より)

江戸時代、「相中留恩記略」に描かれた石切(石屋)善左衛門の屋敷。
北条氏滅亡後も徳川幕府に保護された善左衛門は多くの使用人を抱え広い屋敷を構えていました。

裏庭のお社も描かれてますね。


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こちらも旧東海道沿い。京紺屋津田家の蔵です。
津田家は大森氏家臣として小田原に住んでいて、
後の北条氏時代には染物職人のトップとして活躍していました。

今は廃業しており、蔵(明治34年築)だけが残されています。
(隣の石造りの建物は昭和初期に建てられた別のお宅です)


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用水路に戻ります。
青木石濱さんを過ぎるとそろそろ板橋見附の分水点が見えてきます。


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図の6新幹線の高架の下で分水され、さらに1号線に出ると小田原城の堀へと分水されます。

北条時代と江戸時代に用水が堀に入ってたかどうかがよくわからないんですけど、
(堀に引くための用水ではなく、寺社や庶民のための上水だったので)
明治の廃城後に次々と水堀が埋められて、残された二の丸堀には小田原用水は流れてなかったんですよ。
やがて堀の水の汚染が問題視されるようになり、昭和55年になって用水を堀に入れる浄化事業が始まったんです。

昭和55年というと私が2歳・・・ ではなく 10代半ばでした。ええなんとなく憶えてますよ堀の工事してたこと。

小田原用水の水は昔から堀に流れてるって当たり前のように思ってたけど違った。
大昔はわからないけど少なくとも昭和の長い期間、堀には流れてなかった。


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ですから1号線のこんなのは

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こんなのはー

昭和55年までなかったんです。



って、どうでもいいことかもしれませんが地元民としては結構驚きません?私は驚きましたよ。
(詳しいことは広報おだわらのアーカイブを読もう)

さらにどうでもいいことかもしれませんが
早川の水を引いてた氏康さんのお屋敷ってどこにあったんでしょうねぇ。。


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先ほどの分水地点に戻ります。
ここは総構の遺構が残る場所で、新幹線線路わきの坂道を上ると堀を利用して作られた伝肇寺墓地があります。
(総構の続きがずっと書けなくて日々悶々としております)


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このあと用水は総構上に建てられた光円寺の横を通り、


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小田原城の西を守る上方口、板橋見附に至ります。
現在は国道1号線と交わるだけの何の変哲もない場所ですが

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(「西さがみの地名」田代道彌 より)

江戸時代はこのような厳重な構造の出入り口でした。
初期の頃は階段が2つもあって嫌だわ・・・ まるでどこかの駅のホームみたい。

私は最近まで知らなかったんですけど、この上方口は北条氏の頃にはなかったらしいのです。
高い総構の土塁でデデデーッと塞がっていたらしいのです。

そしたら板橋の人はどこから城内に入ったんでしょうねぇ・・・
道から大きくそれて他の虎口から入るのは考えづらいしかわいそうなので、
やっぱりなんかあったはずですよ。いや、あってほしい。抜け道とか、抜け穴とか。



しつこく その3に続きます。


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小田原用水 その1

おだわら散策
04 /22 2017
日本最古の上水路といわれる小田原用水
建設年代の詳細はわかっていませんが、天文14年(1545)に小田原に来た連歌師宋牧さんが「東国紀行」にて
 氏康さんのお庭の水は早川から引いてるっ! 
と驚いてるのでだいたいその頃だと思われます。
(私は大森氏の頃にあったんじゃないかと妄想を膨らませております   一人で)


水路のことって実はすごく苦手なんですよ。私は古道も苦手です。頭の中で道筋が上手く組み立てられなくてパニックに陥るのです。
今も足柄古道について勉強してるのですが
「つながらない・・・」って地図を前に蛍光ペンプルプルさせて泣きそうになることも。
つまり地理が苦手なんですね。地図自体が苦手です。だからよく道に迷うのでしょう。

でも苦手なのになぜか好きで。好きなのに苦手なまま。
好きこそものの上手なれ ってのは私の場合はちょいと違うようです。

ですから私が水路や古道について語ってる時は「あぁがんばってるんだな」と生ぬるい目で見守っていただけると有難く^^
今回も非常に悩み時間をかけて書いております。


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小田原用水取入口 の入り口です。
箱根板橋駅から風祭に向かって500mほどの国道1号線沿いにあります。


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明治時代の大窪村(現在の板橋)村長、市川文次郎の頌徳碑。
2つの分水事件(小田原水道分水事件、芦ノ湖逆川口分水事件)への功績が称えられ、昭和8年に建てられました。

隣にある小さな祠は水神さまです。


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取水口

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小田原市HP デジタルアーカイブ より)

昔の取水口。
昭和40年頃でしょうか。

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早川からの分水口。
ずっと歩いて行けます。危険ですが・・・


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ここまで来ると恐ろしい。
この後ビビりながら戻りました。


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(小田原市歴史的風致維持向上計画 小田原用水位置図に加筆)

小田原用水は早川から取られ、板橋を通って城下へと流れます。
当初は北側の1本だけだったようですが時代が下るにつれ分岐を重ね、やがて図のように板橋全土を覆い尽くしたのであります(?)
どこに行っても用水があるのは板橋民にとって普通の光景で、生活にはなくてはならないもので、
私の父親が若かった頃までは野菜を洗ったり洗濯したりシジミやヤゴをとったり泳いだりしていたそうです。

私の記憶には泳げるような用水はなく、底にびっしりと茶色の藻が広がるただのドブ川。ゴミも多かったです。
(石を投げて藻が剥がれる様子を見るのが好きだった)
何度か落ちました。私はいつも軽傷で済みましたが、ある時石橋で遊んでいて頭から落ちた妹は大出血。
たいした傷ではなかったもののしばらく通院する羽目になったのを憶えています。

現在は暗渠化が進み開渠が見られるところはごく僅か。
私たち姉妹が落ちた場所も無事にコンクリートで塞がれました。  
ですが古い北側の水路はいまだほとんどが開渠のままで昔の面影を残しています。 
                                                       

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取水された水は国道1号線下を通って板橋に入ります。
ちょうど車が止まってる横断歩道のあたりを流れてます。

箱根登山線の陸橋をくぐった道が旧東海道です。


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用水は図の2の部分で2本になります。
分岐というよりは別の水路から来ているようですが。

取水口近くの水は昔も今も綺麗です。


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手前の橋の下を1本、奥の石段の下にもう1本流れてます。
2本の用水路をまたぐ趣ある小道です。


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こちらが石段の下の橋。石段を上ると旧東海道です。
橋の横の丸い石は大正時代にここで流された子を偲んだ母親の句碑。

昔ほどの危険はないにしても、今も台風の時期などは水量が増え轟音をたてて流れていまので気をつけましょう。


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ちょうど登山電車が走ってました。
景観が最も良いのでよく撮影されている付近です。


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小田原市HP デジタルアーカイブ より)

おそらく同じ場所。
板橋のこういった古い建物は最近一気に減ってしまいました。
これ以上減ってほしくないです。


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1本は暗渠になりますが、もう1本の古い方はカーブして旧東海道へと向かいます。


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こちらは先ほどの箱根登山線の陸橋をくぐった旧東海道。
私達は「旧道」と呼んでいます。

左手張り出しのお宅は東京の嵯峨侯爵邸の一部を移築したもの。
大木のあるところは「板橋のお地蔵さん」で有名な宗福院地蔵堂です。


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上の場所からしばらく歩くと松永記念館と香林寺への別れ道。図の3。
道路の下を水路が流れて北に向かいます。
かつてはここに板の橋が架かっていたことから板橋の地名の由来と考えられています。

奥に見える建物は内野醤油屋さんです。


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江戸時代の分間延絵図に描かれた板橋村。
早川から取水され、東海道を横切り板橋北側を流れ、板橋見附から再び東海道を横切り早川村方面に向かう用水の姿がよくわかります。

板橋の北側というのはご覧のように寺がたくさんあり、
ですから用水は庶民のためではなく寺のためのものだったと考えられます。


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内野醤油屋さん。
明治36年の建築。昭和50年まで営業していました。
小学校の通学路だったので、帰り道ここを通ると醤油の匂いでお腹がすいちゃってすいちゃって。

現在は隔週土日に邸内や工場跡が有料公開され、様々なイベントも開かれています。



その2に続く。。


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