裾野市深良・・・大森氏発祥の地

大森氏をたずねて
03 /30 2017
大森氏のかんたん系図~

 藤原道隆━藤原伊周━忠親(母伊勢氏)━惟康(高橋姓)━親康━親家(大森姓)

伊周の孫にあたる高橋惟康が三河高橋庄(だから高橋姓)の次に駿河藍沢庄国司に着任、赤子の森に館を建てました。
藍沢庄とは三島から黄瀬川沿いに北上する地域で、赤子の森があったのは現在の裾野市深良。
一族は繁栄し親家の代に赤子の森近くの大森山に城を築き、土着して姓を大森に改めました。
親家は建久4年(1193)に鎌倉に仕えたらしいので、大森姓を名乗り始めたのもその頃でしょうか。

以降大森氏は早雲に小田原を追われるまで13代続き、
大森氏初代の親家から7代藤頼までを駿河大森、8代頼明から13代藤頼までを小田原大森と分けて呼ぶこともあります。
(注意:7代藤頼と13代藤頼は別人)




大森氏発祥の地である裾野市深良。
深良といえば深良用水が有名ですが大森氏のことはほとんど知られていませんよね・・・

この地にあったという居館跡は幾つか候補があって、まずは南堀という字にある興禅寺。


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霊亀山興禅寺
「駿河志料」によると大森氏開基と伝わるものの古くに記録を焼失とのこと。


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立派な山門は江戸時代初期のもの。
陣山と呼ばれる背後の山に館の遺構があります。


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寺の右手墓地の見事な土塁。

最初は本堂の裏から急傾斜を登ってしまって(笑)・・・墓地から行けば楽だったのね。。


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虎口かもしれない。


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段々となってる曲輪。
ところどころ私有地で立ち入り禁止が多いのでご注意を。


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どこまでが遺構か、いつの時代の遺構かわからないのですが美しい小道です。


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新しい墓地が作られてる広い平地。ここが一番広いので主郭でしょうか。
居館というよりはほとんど山城です。


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主郭(だと思う)の土塁。


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主郭(たぶん)から下方を見る。
堀のような川のような・・・
土地の方が使ってる橋がありました。私有地なのでこれ以上は入れません。

立ち入り禁止の張り紙がほんとに多いんですよ。
それだけ迷惑しているからなのでしょう。皆さんマナーは守りましょうね。



居館と伝わるもう一つは西安寺。
興禅寺から北へ400mほどの切久保という所。近いです。

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大森山西安寺
こちらは残念ながら遺構と伝わるものは残っていません。

門横に最近建った石碑があり
甲斐駿河両国の国司を命ぜられた藤原惟康がこの地に荘園を構え菩提寺を建立、
親家に至り姓を大森と改める、
明応元年(1492)大森式部少輔氏頼が中興開基となり寺を当地に移す、

と大変わかりやすく寺の由来が書いてあります。

西安寺開基の詳細はわかっていませんが惟康が建てたことは確かなようです。
寺は元々切久保から少し北の上原にあって、だいぶ時が経ってから氏頼が現在の地に移したんですね。
上原には今でも赤子神社があるので、惟康が最初に建てた赤子の森の館はその辺りだったのでしょうか。

なお西安寺については保田宗良先生が「岩原古城と住民」の中で
御殿場線がまだ蒸気機関車だった頃、山北駅からの下り線が西安寺付近でしょっちゅう立ち往生してしまい、
見かねた僧侶達が作業員や乗客におにぎりを振る舞っていたと心温まるお話を書いていらっしゃいます。

西安寺は線路のすぐ脇に建っていて当時は参道もなかったそうで、
昭和に電車に替わった際、寺の長年の好意に感謝して線路敷の一部が参道として寄進されたそうです。



大森山はこの西安寺のさらに北600mほどにあります。
主郭には現在深良中学校が建っていて

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こんな感じで・・・全くわかりませんし入れません。
道路沿いには「防犯カメラあり」などの注意書きがたくさんあり、ウロウロしようものなら瞬時に通報されてしまいそうです。

それにしてもこんな淋しい山の中に中学校を建てるなんてちょっと驚き。
私の通った中学校も山の中だったけど住宅が多いからまだ良かった。ここは周りに何にもないんです。暗くなったら怖そう。
老婆心ながら生徒さん達がすごく心配になってしまいました。


ということで
不審者に間違えられそうな人はここへは来ない方が無難です。


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高麗山城(神奈川県)

神奈川県
03 /22 2017
恋人同士が南京錠をバチバチとくっつける観光名所は全国各地にありますが
その発祥の地と言われているのは高麗山の湘南平だそうです。超有名なデートスポットですものね。
でも高麗山(こまやま)という名はあまり知られていないのでは?
(私もずっと知らなかった)

実は高麗山の名を知ったのはわりと最近で、
大森氏のことを調べていて 箱根権現は元々大磯の高麗権現から勧請されたものだと、
高麗神社はその名の通り渡来高麗人によるもので、祀られていた山は高麗山と呼ばれたと。
室町時代になると高麗山が城として利用されたと。
そんな感じ^^


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高麗神社はやがて神仏習合により高麗寺として発展。
永享の乱や北条早雲の関東進出のため山頂部が城として利用され荒廃したのですが
江戸時代に東照権現を併祀し復興。
明治になると神仏分離により神社以外の建物は壊され、名を高来神社と改め現在に至ります。

この図は神社案内板の天保3年の境内見取り図。
山全体が寺だったんですね。


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城址については大磯町のパンフにわかりやすい地図がありました。

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こちらも大磯町HPより。

大堂を中心に八俵山、東天照の3つの頂に曲輪が設けられていました。
江戸時代に大きく改変されたこともあり遺構が確認できるのは大堂周辺だけのようです。


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高来神社。
裏手に山道入り口があります。


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山道入り口。
男坂と女坂に別れてます。
こういう場所で私は男坂には絶対に行きませんので、男坂がどれだけキツいのかは存じません。
女坂も決して楽ではないですが距離が短いせいか(大堂まで20~30分くらい)それほどつらさは感じません。

高麗山はどこを歩いていても麓の車の音が聞こえるほど小さな山で、ハイキングコースは万全な整備がされており超安全です。
大磯町HPでも「プチ登山体験コース」などと紹介されてて、ファミリーや単独女性が多く、山というよりは公園を散歩してる気分。
他の山城に比べたら天国のようなところですよぉ。


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大堂に入ったところ。
正面の白い立札のあるところが入り口ですが戦国の虎口かどうかは不明。


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かつては高麗権現上宮があった場所。
昭和6年に再建されましたが老朽化により昭和55年に取り壊されました。
背後には城址だった頃からの土塁が残ってます。


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こんもりしてるので物見台があったかもしれない。


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第一の堀切。


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思ったより深く残っていてびっくり。


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第二の堀切。
こちらも深いです。やっぱり小田原や静岡方面より富士山の火山灰少ないからかなぁ。


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毘沙門塔のあった八俵山山頂。
こちらには曲輪の面影は残っていません。

湘南平へはこの先を進みますが、私は城目的なのでこのまま引き返して東天照へ。


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東天照の手前、堀切と土橋に見える場所。


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白山社のあった東天照。
ここにも曲輪があったのですがわかりにくい現状です。


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東天照からの帰り道にある展望台。
曇ってるけど気持ちいいです。



途中結構別れ道がありますが、どこを通っても同じところに着くので迷うことはないと思います。
本当に本当に安全!
サンダル登城はさすがに大変でしょうが、スカート登城くらいだったら全然問題ないかも(笑)
湘南に遊びに来たついでに気軽に登れちゃう山です。


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幻庵屋敷その後の発見 

おだわら散策
03 /12 2017
先月の久野北条幻庵顕彰会で立木望隆先生のことが紹介されていました。
市内穴部出身、戦後は御霊屋裏手に住み、まだ世間で関心の薄かった幻庵や早雲出自について研究された方です。

幻庵屋敷を歩いてから図書館で立木先生の著書を読んだら(順番が逆だけど)

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(「北條幻庵伝略」立木望隆 より)

これですよこの図。
中屋敷ってこんなに広かった~
七軒屋敷はもっと東だった~

立木先生も言われてますが、屋敷をぶった切ってる後世の道路(稲葉氏がつくったらしい)
のせいで屋敷全体像が掴みにくいんですよね。
道路はなかったとわかってるにも関わらず。

築山(幻庵池)はあくまでも庭園があったところで、館はもっと南にあったのね。
そうすると「東国紀行」で宗牧を館裏の山家へ案内する様子が見えてくる。

 幻庵後園の山家みすべしとて竹の枯葉を踏み分けてしるべせられたり

幻庵池のある保育園周囲が館だと思ってたので、後園の山家っていったいどこなのさ?だったんですよ私。


そして、七軒屋敷は想像よりもっと東だった。

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この辺ですよこの辺。この右側が七軒屋敷。
保育園出てすぐ東だと七軒も屋敷があったにしては狭すぎると思ってたんです。

元は七軒屋敷奥にあったという京福寺(栖徳寺)
顕彰会の地図の五輪塔片多数という場所が立木先生の栖徳寺推定地のようです。
この間の散策では行けなかったので次回にチャレンジしたいです。

先生の本で昭和30年代の幻庵池周囲の写真を見たんですが
畑だらけで何にもなくてなくて・・・羨ましい限り。
そういえば私が子供の頃の久野はほんとに畑ばかりだったなぁ。


関係ないですけど、
小学生の頃よく久野の親戚宅に遊びに行ってたんです。

市街地から久野へは市役所前の道を通ると思うのですが、
板橋からだといこいの森の山道から久野霊園への道を反対側に下って留場に出るんですよ。
(昔は新道はなかったので)
留場から大きくカーブしてさらに行くと総世寺があって。
今みたいに家がたくさんなかったので夜になると真っ暗で怖かったです。

で、何が言いたいかと申しますと
幻庵の時代、板橋から久野へはどこを通ったんだろう?
幻庵屋敷から総世寺へはどこを通ったんだろう?
やっぱり現在の山道は古道と同じなのかしら?

というボーッとした想い。。


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幻庵の母の菩提寺

おだわら散策
03 /07 2017
幻庵の池から東に600mほど、坂下という地区に栖徳山京福寺があります。

元は幻庵屋敷内の七軒屋敷に幻庵の母である栖徳寺殿の菩提寺として建てられ
その頃は万安山栖徳寺といいました。


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栖徳寺は小田原落城後に荒廃し、元禄年間に七軒屋敷から移転して再興。
宗派も臨済宗から曹洞宗へと変わりました。


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幻庵が久野に住んだのは総世寺の安叟宗楞を崇拝していたことも理由の一つ、と大森氏関連で聞いていたので、
栖徳寺は最初から曹洞宗だと思ってたんです。

創建時は臨済宗だったんですね。


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現在の京福寺には幻庵と栖徳寺殿の供養碑があります。
ここに再興した時に建てたもので、年号や文字が間違ってるそうですよ。(よく読めないけど)

お隣には三郎景虎の眩しい供養碑が。
これは知りませんでした。最近建てたみたいですね。

全国の三郎ファンの皆様、小田原に来たら是非京福寺にも寄ってね~


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幻庵達の新しい供養碑もありました。
真ん中が万安山栖徳寺の開山明叟宗普、右が栖徳寺殿で左が幻庵の諡号です。


なお、幻庵の母は葛山出身の栖徳寺殿で、正室は伊豆大平出身の善修寺殿、が従来の説ですが
最近は逆だったんじゃないかといわれています。
まだ確証がないので今後の研究に期待したいところ。

後世に母と妻が逆にされてるなんて・・・幻庵さんも複雑な心境でございましょう。



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北条幻庵屋敷を歩いてみた

おだわら散策
02 /25 2017
先日ご紹介した久野北条幻庵顕彰会の講演会で拝見した「幻庵屋敷想定郭心部位置図」

この図を見ながら久野の幻庵屋敷を歩いてきました。

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(幻庵池の位置を青〇でポチッ)

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幻庵の池。
池周辺の「中宿」地区に幻庵の居住屋敷「中屋敷」があったと言われてます。


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池入り口(久野保育園入り口)にわずかに残る中屋敷の土塁。
池からの水が道路左端を流れてます。


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保育園運動場(子供達は野原と呼んでた)の東側の柵に沿って土塁が続いていたようです。
写真左手が中屋敷の東にあったという「七軒屋敷」跡・・・でしょうか。

敷石が残ってるらしいのですが私有地なので確認はできません。


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中屋敷の北、水路跡の先にある現在の水路。


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保育園北の「オチャノミズ」(御茶ノ水)

幻庵の頃から利用されていた湧水です。
今はチョロチョロとしか出てないようですが・・・


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オチャノミズ近くの祠。
湧水は祠前の水路を通り幻庵池へと流れます。


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保育園をぐるっと回り幻庵池に戻ってきました。

右にあるのが幻庵の御霊屋。
新編相模国風土記稿によると
「五輪の頽碑苔生て、前に石の燈臺一基あり・・・(中略)香花の手向もなく古墳空しく荊棘中に埋もれしは歎ずべし」

風土記が書かれた天保の頃はだいぶ荒廃していたようです。


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御霊屋の橋の下の水路。
オチャノミズからの水がここで幻庵池に流入します。


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御霊屋の奥、元はオチャノミズから真っすぐ南へ続いていた道です。
左手が少し低いので土塁があったのかもしれません。

この先は駐在所前の車道に出ます。


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ここにも祠。


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車道脇に集められた近隣の石碑。久野には寒念仏の碑が多いです。


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幻庵池のちょうど裏にある中宿公民館。
建物右、木が茂ってる向こう側が幻庵池です。

幻庵屋敷はまだ2ヶ所しか発掘調査されていないのですが、ここがその1ヶ所。
公民館新築に伴う調査で堀と土塁が発見されています。


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もう1ヶ所は久野小学校並びの住宅地なので撮影は控えました。
代わりに「小田原の遺跡探訪シリーズ8 久野遺跡群」より堀の写真を。

かなり大規模な堀で、しかも堀の東側の幻庵池周辺より標高が高いので、
中屋敷は堀の西側、小学校の方だったんじゃないか?という疑惑が生じてるとか。うーん・・・

早く他の地点の調査もしてほしいわぁ。。


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久野小学校の隣にある東泉院。
大永元年(1521)総世寺第7世大休宗恵により開山。幻庵が久野に来る以前からあったんですね。
このお寺も幻庵屋敷にスッポリ入ってて、小学校とお寺を含む広大な敷地の周りに堀があったと想定されてます。


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東泉院北側の道。堀道に見えます。


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東泉院参道。ここも推定堀道。

参道の東側に砂利の敷石や幻庵石なるものがあるようなのですが私有地なので当然わからず。
(幻庵石ってなんだろう?)


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中屋敷の南、古道か堀道と思われる道路。

中屋敷、七軒屋敷の他に「太鼓屋敷」「丹波屋敷」という字もあって、それらは風土記には南!としか書いてないので
南のどの辺かはサッパリわからずモヤモヤします。

 
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ここにも石碑達が。


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図の一番南側、旧門跡はこの辺りです。(旧門と言うからには新門もあるのかしら?)

現在の道路と古道(?)が同じなのはここまで。
ここから古道(?)は緩く東を回り中屋敷方向へ戻りますが、住宅地や畑に埋没してるので追跡は困難です。


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なんとなく、住宅の手間の盛り上がりが土塁の名残なのかな?そうであって欲しいなぁ・・・と。


この後は幻庵の供養碑がある京福寺に寄りましたが、長くなるので後日に。


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